ガチャを「ただのデータ」とバカにすることの無意味さについて
ゲームアプリなどで、特定のキャラやカードなどが使えるようになるため、ガチャは引かれる。(「など」が多い)
そして、課金がなされる場合も少なくない。
しかも、かなりの金額であるケースもしばしば、である。
らしい。(知らん)
職場の後輩が、某ビックリマンのゲームに課金をしたのだそうだ。
独身で、それなりの給料をもらっているハズの彼。
けれども、「カネがナイ!」といつも言っているので、おかしいとは思っていた。
なので、聞いてみたら、そーゆー話なのだそうだ。
課金額は、50万以上。
なかなかのモンであーる。
「あー、そういうのニュースで見たことあるワー。つーか、お前だったんかーい。」
という感じだ。
しかし、本題は、ここから。
ガチャへの大量の課金。
それに対してなされる批判で、こういうものがある。
「ただのデータに、大金をつぎ込む意味がわからない。」
いやいやいや。
ただのデータ、て。
「ただのデータ」て。
あのね。
脳にとっては、すべてが「ただのデータ」だから。
面白い本や映画のために、お金を出しても同じ。
楽しんでいるときに得られているのは、「ただのデータ」です。
驚いたり、喜んだり、泣いたりしたとしても、その元になった情報も、感動も、「ただのデータ」です。
デートに金を使っても、同じ。
イチャコラしてるときの楽しい気分も、「ただのデータ」。
ロマンチックな気分も、セクロスの快楽も、通じ合う心がもたらす充実感も、「ただのデータ」です。
住み心地の良いステキな一軒家を、大金をつぎ込んで買ったとしても、まったく同じ。
そこに住んでいるときに得られる感覚は、「ただのデータ」。
文字どおりの「アットホーム」な気分も、「ただのデータ」です。
大切な家族のために、保険に入っても同じ。
得られた安心感も、「ただのデータ」。
家族が死んで払い込まれた保険金も、「ただのデータ」。
それを使って子供に服を買い与えたときに、子供が感じる服の暖かさも「ただのデータ」。
子供に教育を受けさせて、脳の中に蓄積・構築されるのも「ただのデータ」。
「死んだのは残念だったけど、保険に入っていた良かった」と感じるのも、「ただのデータ」。
親としての役目を果たしたように思って、ほっとする気持ちも、「ただのデータ」。
データ、データ、データ。
脳にとって、すべては「ただのデータ」です。
だからね、おかしいの。
「ただのデータ」に大金をつぎ込むのがおかしいってのは、おかしいの。
うん。
とどのつまりは、ちょっとだけだけど、完全に言い方がおかしい。
「そこまで価値のあるデータとは、思えない。」
という話なら、分かる。
そこらへんは、正確に表現してイキたい。
ただし、そうした表現が思わず出てしまうところには、何かがある。
そこには、ある種の「恐ろしさの表現」が、含まれているのだろうと思う。
つまり、掛け替えがない美しい関係がもたらすものも、ガチャがもたらすものも、同じく「ただのデータ」であることへの恐ろしさ、である。
まぁ、たしかに、そうね。
何やら、うそ寒い。
けれども、だからと言って、人をバカにすることでそれを解決することはできない。
そーゆーことだ。
けれども、現実問題として、自分がそこまでの課金をするかと言えば、しないと思う。
つぅか、そんなことする奴はバカだと思う。(えー?)
理由はもちろん、「ただのデータ」にすぎないから、ではない。
そこまで価値のあるデータとは思えないから、だ。
というより、一時的な煽りに負けているだけ、と思うからだ。
冷静な気持ちになって、掛けたカネで他に得られるものと、ガチャの結果を天秤に掛けたら、やらないだろうと思うからだ。
しかし、人間ってのは、そういう「熱狂」のようなものが欲しいのだ、というところもあり。
バカになるのも、別に、いいんじゃないかとは思う。
とは言え、まぁ、例の後輩君は、ゲットしたキャラを自分のプロフィール画面に貼りたかっただけのことのようで。
レアキャラをゲットしたオレ、的な。
友だちにそれを見せて、「えー?お前、ゲットしたんかいなー」と言わせたい、というような。
そのときに、鼻高々になっちゃうような。
その見栄のあまりの小ささは、なんだか、とても悲しいね。
というデータが、ボクの脳に・・・。