イジメはなぜダメなのか。
こんにちは。kihiroです。
今日は、イジメの話です。
むかし、「いじめ、カッコ悪い」なんて、イッてた人もいましたけど。
その後、酔ってタクシー運転手に暴行して、謹慎して、復帰して、芸人になって、文化人になって、都知事になって、総理大臣になって、世界的な秘密結社のリーダーになって、新たな世界宗教の教祖になって、最後には、世界を征服した人もいましたけど。(そんな人はいません)
どうですかね。
イジメ。
「人として許されないこと」なのでしょうかね。
それとも、「イジメられる側にも問題がある」のでしょうかね。
はたまた、「どんなに頑張っても根絶できないもの」なのでしょうかね。
どうやって解決していけば、いいんでしょうか。
色々と語られることのあるイジメですが、ヒジョーに「おかしい」と思うことが、一つあります。
それは、「なぜイジメをしてはいけないのか」を誰も説明していない、ということです。
そこで、アナタに問います。
それは、なぜですか?
なぜ、「イジメてはダメ」なのですか?
その答えは、「ダメに決っているから」でしょうか。
確かに、いわゆる倫理や道徳と呼ばれるものには、「そうに決っているから」としか説明できない部分があります。
ほとんどの人間は、「殺人をすべきでないから、人を殺さない」のではありません。
単に、人を殺さないのだし、殺せないのです。
しかし、「イジメはダメ」が身についていない子供には、「決っているから」では話が通じないのは明白です。
「ダメだからヤメロ」では、誰かをイジメてスカッとしている子供を、きっと止められません。
止められないというのは、イジメているその場でやめさせられないということではありません。
そうではなくて、大人の目の届かないところで、誰かをイジメることを防ぐことができないだろう、という意味です。
「イジメはダメ」には、他に、どういう説明がありえるでしょうか。
「いじめられた相手が、かわいそうだから」、イジメはダメなのでしょうか。
では、かわいそうじゃない奴は、イジメてOKでしょうか?
もしかすると、「イジメられてかわいそうでない人など、いない」のでしょうか。
しかし、かわいそうと思うかどうかは、子供がどう感じるか、つまりは、本人次第なのではないでしょうか。
特定の誰かについて、「別にかわいそうとは思わない」という考えが子供の中にあったとして、それは、さほど異常とは言えないのではないでしょうか。
あるいは、イジメがダメなのは、「それが犯罪だから」でしょうか。
ならば、シカト(無視)するなどの「犯罪とは言えないレベル」のイジメはしてもいいのでしょうか。
嫌がらせと呼ばれるものの中には、「即、犯罪」とは見なされないものが、とてもたくさんあります。
それらを使ってのイジメは、許されるということでしょうか。
そんなハズは、ありません。
というワケで、よくある意見を並べてみましたが、どれもこれも「イジメはなぜダメか」の答えになっていません。
しかし、そもそも、いけないことである理由さえ説明できないものを、どうして子供に強制できるでしょうか。
これは、とても大きな問題です。
イジメとともに、学校内での問題としてよく語られるものに、「体罰」があります。
体罰も、「絶対に許されない」とする人もいれば、「愛情があれば、ある程度は許される」とする人もいます。
これについては、小説家の村上龍氏が、「愛情の表現・発露」として容認する人々について、その論理的なおかしさを指摘しています。
趣旨としては、「愛情のなせる業だというのは、後付けで何とでも言える」というような内容です。
つまり、単に個人的な不機嫌さのゆえに殴ったのだとしても、それを「愛があるからやったんだぞ」と説明するようなことは、いくらでもできます。
暴力を振るわれた側は、その真偽を確かめる術がないワケです。
結局、教師の側は、いつでも殴りたい放題にできて、しかし、「愛情」という免罪符で必ず逃げられることになってしまう。
さすがに、これはおかしい。
だから、「愛情などというのは言い訳にはならないし、させてはいけない」ということになるワケです。
大事なことは、こんな風に子供でもわかるように、明確に説明できることです。
では、イジメについては、どうなのか。
そこのトコロが、きちんと説明されていないのではないか。
そういう疑問から、この本を書きました。
という宣伝ダヨ!
この文章は宣伝だったんダヨ!(ヒトデナシ)