アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』第1期・第2期・劇場版 レビュー(ネタバレ注意)
今更ながら、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』を見たのでレビューしたいと思う。
ちなみに、見たのは、第1期、第2期、劇場版ということで、現時点でのアニメ作品すべて。
全体的には面白かったのが、違和感というか疑問点というか、そういうようなところがいくつかある。
■第1期
まず狡噛のカリスマ性の欠如が挙げられる。
槙島と呼応するカリスマ性が、狡噛には欠けている。
そのためラストの対決において緊張感を与えたり、納得をさせたりする力が足りなくなってしまっているようだ。
槙島の方は、完全に登場した時点からカリスマとして描かれている。
しかし狡噛は、非常に高度な分析をするなど活躍を見せるものの、同僚の復讐に燃える熱血漢として描かれている部分があり、それがキャラクターとしての単純さを連想させるものとなってしまっている。
槙島を追い詰めていく過程においても、狡噛は、槙島の考えを読む事はしているが、先回りして相手を追い詰めるほどの感覚の鋭さ思考の鋭さを見せるといった場面は描かれていなかったようだ。
このようなことから、槙島が狡噛を認めるような発言をしても、その説得性は低く物語としての盛り上がりに欠けている。
狡噛を描くとすれば、彼は正義の側のカリスマであるのだから、その点を徹底させる必要があるだろう。
単に法が悪人を捌けないからといって、そこから逸脱すると言うのでは単純にすぎる。
あくまで正義の側に留まって、法の枠内で策略をめぐらし槙島を追い詰めるといった場面を描くことが期待される。
単純な二項対立である必要はないが、ズレれば、焦点はボヤける可能性は上がり、実際にボヤけている感が強い。
翻って、槙島だが、話が進むにつれ、やろうとすることが革命的でなどではなく、単なる無政府主義的な犯罪者でしかなくなっている。
よくある話だが、物語においてカリスマは、描写すればするほど、その凡庸さが隠せなくなってくる。
残念ながら、槙島の場合も、例外ではなかったようだ。
槙島の立ち位置と狡噛との対立のボケ、そこいら辺りが、ラストに向かって盛り上がっているようでいて、どうにも消化不良な感触が残る原因ではないか。
また朱に対してシビュラシステムがその存在の種明かしをするシーンは、非常に唐突な印象があり、その後の話の流れもおかしい。
色々な条件を飲まされ、シビュラシステムが朱に懐柔されるシーンは、最強の頭脳としてのシビュラシステムの設定と合致せず、辻褄が会っていない。
仮にそこまでシビュラが読んでいて、あえて朱にそのようにさせたという解釈できない事はないが、そうだとすれば朱の裏をかくことができたということを確認させるような場面を描く必要があるだろう。
シビュラシステムの見た目も、単なるイメージとして表示されているものとも考えられるが、忙しく出し入れしているような動きは、冗談かと思い笑ってしまうほどナイーブ(素朴)である。
そういう細かいツッコミはさておき、思うに、この物語の構造の白眉は、監視官と執行官との関係にあるのではないか。
監視官が執行官を盾に捜査を進めていくと言う関係の綾の中に、醍醐味があるということだ。
そこを深堀りした方が、話としての面白みは出るように思う。
■第2期
たとえ脳を含めての話であっても、複数の体の継ぎ接ぎで作られた人間というのと、脳の集合としての存在というのでは、ゼンゼン別の話だよネー。
なので、大きなテーマの根本が、アヤフヤになっちゃってるよネー。
■映画
第1期、第2期ともに、展開の早さが良かったが、映画は50分くらいまでダラダラしていて、かなりダルかった。
戦闘シーンに力が注がれていたけれども、オチが、ちと、ありがちすぎ、で、ハニャホニャヘニャー。
・・・。
てな訳で、まぁ、こんなところだが。
全体的に「ながら見」、だったので、「んなこたーねぇ」ってトコもあるかもしれんが、まぁ、ザックリな感想ということ、で、ひとつ。
で。
この記事を書くに当たって、他の人はどんな感想を書いているのだろうと、少し見てみたが、なかなか面白いモノがあった。
それは、「犯罪を未然に判定するシステムは非人間的で、だからこの作品はイヤだ」というものである。
嗚呼、恐ろしい。
まぁ、確かに、作品に描かれた世界観に、いわゆる「引く」ということはあるだろう。
しかし、当然のことながら、物語としては、そうした世界への批判を含んでいたりもする訳だ。
そんなことも関係なく、物語に含まれている内容への評価が、物語自体への評価と一緒になってしまっているような感想。
これは、結構、怖い。
でも、まぁ、きっと、フツーの人の感想って、もしかしたら、そんなものなのだね。
そんな事実の方が、「引く」けど、なぁ。