首の骨を折って全身麻痺になってでも組み体操をやらなければならない理由
こんぬつは、朝食べられないのは夜食べ過ぎだからだろうと思うkihiroさんですよ。どーもどーも。
さてさて、一部の教育者の方々が熱狂的に信奉している組み体操の話題です。
こんなニュースがございました。
いやいやいや。
事故が相次いでいるから俎上に上ったワケで。
にも関わらず、なぜ、ここまで頑張らなけりゃならないのか、意味が分からん。
「中止するのは簡単だが、続けていけるように教員向けの研修を行うなど何ができるかもっと考えるべきだ」という意見があったそうだが・・・。
なぜ続けていけるようにしなければならないのかについては、何も言ってないですな。
「組み体操をなくせば次はムカデ競争をやめようとなる。安全を第一に考えながら継続すべきだ」という意見もあったとのことだが・・。
ムカデ競争だって、危険だということになれば、やめるのが当然だろう。
どうにも、「継続ありき」の議論としか見受けられず、気持ちが悪くて仕方がない。
「自分たちも頑張ってやってきた、そこから学んだこともある、だから、いまの子供たちもやるべき」というような話なんでしょうかネ。
自己肯定感のために、他人を、しかも子供を、犠牲にするのはタノシイのでしょうか。
コチラは以前の大阪市での決定を受けてのニュースですが・・・。
某極楽とんぼの加藤某は、「部活で怪我することもあるわけだ。それはみんなが訓練してて、いいチームを作りましょうってことでしょ」などと言っていたらしく。
しかし、部活と授業や運動会とは、ゼンゼン別だろうね。
部活は「やりたいヤツがやっている」というのが基本だから。
運動会と部活がゴッチャになっちまうような、運動に対して「やらされ感」なく育ったようなヤツに、分かったようなことを言われたくないもんだな。
骨折するような事態にまでなるようなことを、是非ともやらせるべきというのなら、なぜやらせるべきなのかについての説明が必要だろう。
そこのところが、決定的に欠けている。
「少しでも危険があればやめるというのでは、体育の授業などできない」というお考えであれば、それは一理あるだろう。
けれども、何をやるにせよ、それをやることの効能と危険性とを天秤に掛けるような考えは必要なものだ。
再度、冒頭のニュースに戻り、別記事だが、
には、
「危険だからと中止にすると、他の種目にも中止が広がる。十分に準備すれば、過去の経験を生かしていける」との意見が出ていた。
どうやら、外野からあーだこーだと言われる度に検討するのではたまったものではない、というお考えが伺えそうですな。
「種目ごとに危険性を示し、各校が安全性を検証して判断するべきだ」という意見もあり・・・。
つまりは、それぞれの学校に判断を任せるべきということであって、わざわざ雁首揃えて議論するとしておきながら、お偉いセンセーがたの無責任な話とも受け取れるネ。
北海道新聞の社説、
によれば、
「過去にはピラミッドの下敷きとなり、首の骨を折って全身まひとなった生徒もいた」とのことだそうで。
委員の皆々様がたは、テメーの子供が全身麻痺になっても、「組み体操をやるべきだ」などと言えるのだろうかね。
やはり、「一度引けば、どんどん引かざるを得なくなりそうでイヤだ」というように見える。
生徒のことを考えずに、自分らの都合で意見を述べるヤツバラを「有識者」と言うのだったかな。
お偉い方々の名簿はコチラです。
同じニュースだが、下の記事は詳しくて良いデスね。
「安全を最優先し、競技をやめてしまうのは簡単だ。組み体操そのものがリスクをはらんでいるということを、指導する側がきちんと認識し安全に取り組めるのか考えることが必要だ」と語ったのは、「中学校体育連盟の理事も務めた大田区立雪谷中学校の新宮領毅 校長」とのこと。
果たして、指導する側が安全に取り組めなかったから事故が多発しているという大前提が、そう簡単にクリアできるのだろうか。
「安全に取り組めるように考えたら、これまでのようにはならない」という希望的観測ならば、脳天気と言われても仕方がないかもしれませぬゾ。
それでもやっぱり事故が起こったら、責任を取るつもりがおありだろうか。
でも、「そこは、現場の判断」として逃げは打ってあるみたいだから、よかったデスね。
先に書いた「中止の方向でいくのは簡単だと思うが、続けていけるように何をしていくかを考えていくべき」との意見は、「東京都公立中学校PTA協議会で総務財政委員長を務める檜山真一さん」のようですな。
「日本スポーツ振興センターで学校安全部安全支援課長を務める米山尚子さん」は、「組み体操をやめたら次はムカデ競走をやめる、といった議論になってしまう気がする。フォークダンスをやっていればいいのか、これでは運動会そのものがなくなっていく」とのご意見だそうで・・・。
しかしながら、「徒競走でコケて怪我したから、徒競走をヤメろ」などとは、誰も言わんよ。
今回の議題を、モンスターペアレントによるクレーム程度のモノと、お考えなのだろうか。
自分たちの領分の話を、外部の人間の意見によって左右されたくないという類の、要らぬ意地としか思われんね。
ただまぁ、「こういう大人になってはイケナイ」という教育的意義は高いかもしれんわな。
過去の議論についても含めて、議事録を拝見したいのだが、公開されていないように見えるのはワタクシだけか。
見つける能力が低すぎたカナ。
いずれにせよ、首の骨を折って全品麻痺になってでも組み体操をやらなければならない理由など、無論、あろうハズもない。
ただただ、ヤバい信奉者どもが、意固地になっているだけの話であろう。
生徒の皆さんは、偉い教育者の方々に殺されないように、自分の身は自分で守っていただければ幸いである。
はい。
だいたいが、人に何かを強制的にやらせるというときには、それ相応の客観的な理由がなければイケナイよ。
「とにかくヤレ」というのでは、畜生相手でも怒られるのがイマなのさ。
そんなことも感じられない奴らが、一体、何を議論しようというのか。
まずもって、委員の方々が、組み体操をやるべきだろう。
11段くらいのヤツを。
5段だって、できやしないだろう。
どうしてダメな奴らというのは、人にヤラせたがるのだろう。
それはおそらく、自分が楽しいことをやっていないからではないか。
人に何かを強制して、世の中が自分の思うとおりだと感じて悦に入るというのは、人間のもっとも醜く愚かしい姿の一つだ。
そんなことをしても、我慢することが刷り込まれた「奴隷」を作るだけの話である。
新たな奴隷ができて喜ぶのは、強制をする側こそが、思い込みの奴隷にすぎないからだろう。
組み体操で学べることは言えば、「協力する喜び」であるよりも、「全体のためには、一部の人間が犠牲になっても仕方がない」ということだ。
それは、馴致、つまり、人間を動物として飼いならすための手段にしかならず、それぞれがそれぞれのあり様に従って喜びを見出す道を作る、そのための準備をするという、教育の目的とは真逆のものにすぎない。
のであーる。
と思うのだが、如何かね。